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宗教不問で利用できる民営の霊園です。
石山霊園

宗教不問・永代供養・屋内墓苑 石山霊園

群馬県伊勢崎市下触町 石山霊園

〒379-2214 群馬県伊勢崎市下触町4


石山観音について

 嵯峨天皇代、弘法大師がこの地を巡錫した折に聖観音像を一夜で厳頭に刻し二十一日間この石上で修法さる。
 その後、妙恵比丘がこの地に庵を造りお産、病苦、畜馬、畜牛に霊験を給わる。
 神鳳抄によれば平安朝代石山の荘園として領有三十町歩に及び、奈良時代延喜式による御牧等設けられると記さる。
 当山は北関東随一の馬頭観音で一名師子無畏観音とも云い、頭上に馬の頭を戴き畜生道に堕ちた者を救う。馬頭観音を心中で想い、口で念ずると四十里以内に不魔諸々の鬼神がいなくなり罪障消滅、多くの福を得ると云う。
 この境内は以前「昼尚暗(ひるなおくら)き」と云われ杉松の茂った期に国定忠治が仲人となり大前田一家と九宮一家の手打式は有名で、人は縁結びの観音と呼ぶ。


鐘楼堂

 元亀年間、赤堀城城主秀綱が主家の追福と乗馬の安泰を祈念して寄進さる。乗馬が当山の東の道で倒れ、観音堂の前で祈念したところたちまちに元気になったと云う利益を兼ねる。


大鰐口(金鼓)

 参詣者が鰐口を鳴らして下をくぐれば人馬の障りを除き、馬が戦場でも大砲や爆音にも驚かず流弾が当たらず運送にも事故がないと云う。直径一丈近く天明年間死者の鎮魂供養として近郊信者の寄進による。


仁王像(金剛力士)

 五百の夜叉神(天夜叉、地夜叉、虚空夜叉)を使役し千の仏の法を護る金剛神なり。阿吽の二体の守護神なり。阿像は密跡金剛で智慧福徳を具う、吽像は那羅延金剛で力量は虚像の七倍の力あり理性と福徳を具う。当山の彫刻者は雲慶作(運慶の略号とも云う)鎌倉時代の作とも。


金毘羅宮

 お堂の西にあり仏教では薬師十二神将の一体で宮比羅大将と云い「鰐(ワニ)」を祭主、金毘羅大権現と云う海上では船旅の守護神、陸では良運の神なり。


石の大鳥居

石の大鳥居

 入り口にあり天の像で天門と云う。天照大神が石窟にお籠りになられた時八百万神(やおよろずのかみ)が出御を祈り、木を石戸の前に建て鳥を止まらせて鳴かせた。この木が鳥居の始まりなり。当山の鳥居は本地水迹の説(神仏混合)による。


塁岩と出羽三山

 堂の裏の岩は赤城の火山岩で、昔地殻変動により岩盤隆起と思われる。長い年月雨水の為この岩が露出さると、ヒンズーの神の中で最高と云う人類を護る堂の鬼門除けに羽黒山、湯殿山、月山を祭りこの堂を修験者の修業所と云う。堂の西に「山王と称し猿をもって宦者となる」の意味を兼ね安産神・性病治癒神・子宝の神として女性の陰部を祭る小さな石宮あり。本体は堂内にある。堂の南側の八海山大神は東(帝釈天)西(水天)南(閻魔天)北(毘沙門天)とその四隅(火天・羅刹天・梵天・伊舍那天)を祭る縁起のよい神と云う。


百体庚申塔(豊作の神)

 猿田彦神の化生。道教の教えによれば人間の体内にいる虫(三尸蟲・さんしちゅう)が庚申の日の夜、その人の悪事を天帝に密告すると云う。よって密告されないように夜を明かして庚申様を祭った。仏家では帝釈天と青面金剛(堂内にある)とを祭った。


水子地蔵(水子霊を救い代受苦の菩薩)

 水子霊を救い代受苦の菩薩


蒋総統の顕彰碑

 第二次世界大戦後、日本が4つに分断されるのを防ぎ国民に安心感を与えた名将なり。生国の中国に向け建立す。



玉村山吉祥院 観照寺 沿革

玉村山 吉祥院 観照寺 外観

観照寺 慈母観音

 当寺の創立は鎌倉初期、土御門天皇代元久元年(西暦1204年)明秀上人の開山による。又寺地はこれより先、平安時代天慶二年(西暦939年)にこの地を開いた郷士玉村太郎の旧地で「錦野の里」と呼ばれた。太郎は神流川合戦に於いて田原藤太秀郷と共に平将門を誅伐した事で知られる。
 明秀上人は紀伊の人で留錫(全国を説教して回りこの地に留まる事)し、この地に堂塔伽藍を建立。郷主太郎にちなみ、玉村山吉祥院観照寺とした。
 その後、一時衰頽したが江戸初期後陽成天皇代、慶長二年(西暦1597年)道照和尚が中興開山した弘化二年(西暦1845年)玉村宿より出た大火で本堂をはじめ宝物を焼失したが、安政四年(西暦1857年)快栄法印代に現本堂が再建された。
 本尊は太郎の持仏にあやかり不動明王、堂内には他に龍、唐獅子、羅漢の彫刻、色彩天上絵(玉村の絵師、玉済による)があり、境内には馬頭尊、観吾の稲荷、五輪宝篋塔、三尊阿弥陀の梵塔(弘長元年)、双体道祖神、水子地蔵尊を祀る。


寺院の名称 玉村山 吉祥院 観照寺
所在地 〒370-1127
群馬県佐波郡玉村町上之手1282
電話番号 0270-65-2510